阪神淡路大震災30周年
「ボランティア元年から30年。私たちは本当に前進したのだろうか?」
2025年1月17日
中村安秀(国際ボランティア学会)
阪神淡路大震災が起きたとき、勤務していた東京の大学病院の震災支援チームリーダーを務めた。一方、それとは別に、小児科医、産婦人科医、臨床心理士、医学生などから構成されるCHAGEという支援グループを作り、東京から神戸市長田区の避難所になった小学校に通い続けた。
1995年3月、やっと動き始めた神戸市営バスのなかで、高齢の女性に声をかけられた。
「いまどきの若い者と言ってきたけれど、ボランティアの若い人を見直したわ。」
日本各地から数十万人のボランティアが駆け付けた。それだけのボランティアを受入れるシステムはなかった。何をすればいいのかわからず、右往左往しているボランティアも少なくなかった。それでも、温かく声をかけてくれる地元の被災者がいた。
国際ボランティア学会は、震災3年後の1998年に発足した。その趣意書には、「阪神・淡路大震災以降日本の社会にボランティアに対する理解と関心が広がってきている。・・・(中略)・・いま日本の政府、NGO(非政府組織)、NPO(非営利組織)も含めて地球規模の諸問題解決のために世界的なネットワークで取り組みが始められている。」と書かれていた。
その後、日本海沖ナホトカ号重油流出事故(1997年)、新潟県中越地震(2004年)、東日本大震災(2011年)、熊本地震(2016年)。大きな災害が起きるたびに、全国からボランティアが駆け付け、被災した自治体やコミュニティが受入れることにより、被災者とボランティアとの間でさまざまな交流が見られた。悲惨な災害がなければ出会うはずのなかった、よそ者と地元の方々が紡ぐ協働の物語が全国各地の被災地で生まれていた。
2024年1月1日に起きた能登半島地震では、様相が大きく異なった。個人のボランティアは受け付けていないという県知事の発言の影響もあり、自由な発想と多様性に富んだボランティア活動は大きく制限された。
阪神淡路大震災から30年。災害時には全国各地から多くのボランティアが被災地に駆けつけるという風景は一変した。「ボランティアに行くと迷惑がかかる」、「被災地ではボランティアを望んでいない」といった風説は、ボランティアを志す人たちの気持ちを凍らせた。一度、途切れた思いをなかなか元に戻すことが難しいまま1年が過ぎた。
災害後の復旧(Rehabilitation, Reconstruction)や復興(Development)には、経済的、社会的、心理的に大きな痛手を受けた人々や社会の恢復力(レジリエンス)が必要である。経済的・社会的な復興には国や行政の強力な支援が必要不可欠である。一方、心理的な復興には、人と人のネットワークが支える信頼と安心の結びつきが欠かせない。まさに、ボランティアの出番である。
阪神淡路大震災から30年目の節目の日に、かつて東京から駆け付けたひとりのボランティア経験者として、国や県が管理する形ではなく、個人の自由意志を尊重し、同時に被災した地元の地域社会と共生できるような形の災害ボランティアシステムの再構築を切望する。
以上